翔流の体験小説

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サイゴノ705

立ち入り禁止看板。僕らの行手を阻むように並んでいる。結露が豆電球のような輪郭をもって、光沢を放っている。文字は擦り切れていて薄く、一文字ずつ読まなければ読めない。
そんなバリケードのような看板のひとつを、明里は乱暴に蹴り飛ばした。蹴られた看板は木片をこぼし、パタンと倒れた。
普段の子供のように丁寧で優しい明里の行動とは思えず、僕は目を丸くしていた。
「さ、行こう」
明里は進みながらそう言った。
一緒に進んでいくと、大きな藍の湖が広がっていた。青黒い水面が紅く燃える淡い光を受け止めて、空に返している。その真ん中では、何か大きくて長いものが、顔を出して傾いている。
「ちょっと手伝って?」
明里が僕の肩を貸りようと手を伸ばした。僕は肩を貸すと、その体勢で靴を脱ぎ、紺色の靴下も取っ払った。
そして裸足になった明里は、ゆっくりと親指先から順に水面に足を落とした。身体の芯を駆け巡る冷たさに片目を瞑りながら、少しづつ足を沈め、ついに両足を浸けた。足首から下の感覚が鈍くなり、指の間からは泥の滑りがすり抜けていく。
「大丈夫?」
「すーっごい冷たくて死にそうだけど、大丈夫だよ」
セリフに大丈夫な要素は薄いが、明里は頷く。そしてまた手を伸ばして、
「遥くんも来てよ」
と言った。
「え、僕も?」
「うん。独りにはしたくないよ」
そう言われ、僕も裸足になって足を沈めた。指先から骨の真ん中を伝って鋭い低温が走り抜けていくのが分かる。痛みにさえ感じてくるほど。
「大丈夫?」
「すっごく冷たくて死にそ。でも平気」
「ふふ。一緒だね」
僕たちは手を繋ぐと、明里が手を引く方へゆっくりと歩き始めた。じわじわと温度を失っていく足首と、指の間をすり抜けていく泥の感覚は、なんとも言えない異質さを僕に味合わせていた。
「どこまで歩くの?」
僕は何気なく聞いてみた。
「多分、遥くんも想像してると思うよ」
明里はそう答えた。
僕もその答えで、何となく察しがついた。
何分か歩いていくと、察しの通りの場所にやって来た。それは少し前に見えた、顔を出して傾いている黒い何か。
「これだよ」
黒い何かの正体。それは赤茶色に錆びつき、半分が水に浸かった状態の電車だった。形からするに後方車両で、窓ガラスはほとんど割れている。折れたパンタグラフには鳥が数羽とまり、囀っていた。
水上に露出したヘッドライトは光を失い、悲しげな表情に見えた。
「これって、何?」
「光ヶ丘電線」
明里はしんみりと答えた。そして繋いだ手を離して、そっと車体に近寄った。
そして車体に手を伸ばし、傷ついた子供を撫でるのと同じような手つきで車体を撫でた。
「光ヶ丘電線?何それ?」
「この列車の名前。今私たちが使ってる列車の前のモデルらしいよ」
明里は解説した。
「詳しいね。明里って電車好きだっけ?」
そう言うと、明里は一度俯いて、悲しそうな目を僕に向けた。
「え?どうしたの?」
「遥くんは気にならない?何で電車が、この湖にあるのか」
そう言われた時、僕はドキッとし、小さく頷いた。
「…一旦岸に上がろう。教えてあげる」
そう言って、明里は岸に向かって歩き出した。僕もあわてて、明里の後を追った。
立ち入り禁止看板のもとに戻って、僕と明里は足を乾かしていた。足はすっかり冷え切って、まだ感覚が鈍い。明里は濡れたスカートの端を絞って水気を取っていた。
「それで、何があったの?その…、」
「光ヶ丘電線が?」
「そう」
気が付けばとても気になってしまった。明里からの問いかけが、僕をその気にさせたのかもしれない。
「でもこの話、少し悲しい話なんだって」
「だって、ってことは、誰かから聞いた話なの?」
「そう。私のお姉ちゃんから聞いたの」
そう言うと明里は、お姉さんから聞いたという光ヶ丘電線について語り始めた。

光ヶ丘電線。正式名称は「光ヶ丘705系電動客車」。
二両編成の電車で、明里のお姉さんが高校生の時に運行していた。
東横間駅を始発に、僕や明里の最寄駅の成谷駅、成谷空野駅、成谷西木駅、中延駅、そして終点光ヶ丘駅と走行していたという。
そんな風に運行していた二〇二一年九月三〇日午前七時五六分。お姉さんが下車する中延駅に向かう途中に踏切を突っ込んでワゴン車が先頭車両に衝突。引き離された二両目が勢いを止めずに走り続け、今僕たちがいる光ヶ丘和白湖に水没したという。
通勤通学により多くの人が乗っていたため乗客乗員も多く、被害もその分大きくなってしまったという。
「それで、お姉さんは大丈夫なの?」
「お姉ちゃんは平気だったみたい。二両目の奥の方にいたから何も無かったんだって。でも…」
言いかけた時、明里の顔はさらに深く落ち込んだ。唇を噛み締め、目は潤いを増していた。
「明里?大丈夫?」
僕が声をかけると、明里は堰を切ったように泣き出した。
「大丈夫?ゆっくりでいいよ」
僕は明里の背中を優しくさすった。肌白の太ももに、明里の落とした雫が線を引いた。
少しして、明里は落ち着きを取り戻し、続けて話した。
話によると、お姉さんについては無事であったものの、お姉さんの恋人である人物は、残念ながら助からなかったという。
それを聞いた僕も、堪らなくなった。遠くで傾いている光ヶ丘電線を見つめて、涙腺が震えてくるのがわかった。
僕は泣くのを堪えながら、静かにお姉さん座り恋人を偲んだ。
やがて、日没を告げる鐘がなった。だんだんと辺りも暗くなっていた。
「そろそろ、帰ろう」
「うん。今日はありがとう」
僕たちは靴を履き、明里は蹴飛ばした看板を元に戻して、その場所を後にした。
「光ヶ丘電線…」
気が付けばふと、そう呟いていた。
僕たちはその時のことを知らない。どんな状況だったのかも、衝撃も、痛みも、全部その時にいた人でしか、わからない。
だからこそ、忘れたくないと思った。
「今日のことと、あの日のこと、忘れないようにしよ?」
帰りの電車を待つ駅で、明里が約束事をした。指切りの手を、僕に差し出して。
「うん。忘れないよ」
僕も頷き、差し出した小指を結んだ。
指が解けたとき、遠くから踏切が鳴った。電車が近づき、僕たちの前でゆっくりと停車した。
僕たちは乗り込み、駅を後にした。

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