#小説を書いていることを伝えた日

#小説を書いていることを伝えた日

#小説を書いていることを伝えた日

 ぼくは小説を書いていることをあまり人には言わない。小説を書いていることを言えるとしたら、同じ創作に励む人や年齢や境遇に関係なく自分がやりたいことを真剣に追求している人、または飲み屋で仲良くなった人ぐらいだ。つまりは同じ土俵で頑張っている人や一期一会の人ぐらいしか伝えない。

ではなぜ普段自分の周りにいる人たちに言わないか。それはネガティブなストレスを持ちたくないからだ。人生の折り返しに近づき小説を書いている、それも職業として成り立たせたいと必死にやっている姿はあまりにも滑稽に見える。少なくともぼくが渡り歩いてきた職場や環境はそういった場所だった。今現在も職場で本を読む行為は中傷のネタとなる。紙にしても電子書籍にしても職場では御法度であり、メモを取る行為もやはり似たように捉えられている。

若いときはそういった中傷は軽く跳ね飛ばすことができた。

「俺は小説家になる」

ワンピース第一話でルフィが小舟の上で両手を大きく上げて高らかに宣言するみたいに。でも両手は握ってはいない。相手に中指を突きつけて、挑発する。一戦を交える覚悟がこっちにはあると意思表示を見せて相手を黙らせる。自分の考えが正しいことを証明するために毎日原稿用紙のマス目を埋めていく。背中に積んだV8エンジンを休みなく稼働させ、鼻腔からは荒々しい煙を吐き出しながらがむしゃらに突き進んでいく。しかし書いても書いても結果が出てこない日々が続くと、視界が狭まり、「いいものを書きたい」という本来の動機が「相手の鼻を折る」ことにスライドしてしまう。

本来創作行為は新しいものを創造することであるのに、相手を破壊することが目的になってしまうと性格はおろか言動が変になってしまう。精神も病み、世の中のありとあらゆるものを否定しまう。京アニ放火事件の犯人、青葉のように。

幸か不幸かまだぼくは第二の青葉にはなっていない。彼のようにまだ筆を折っていないし、捨てていないからだと思う。物書き界隈でよく耳にする「書くことで救われる」という神話を眉唾ものだと考えていたが、意外と信憑性があるのかもしれない。

それでは「小説を書いていることを伝える日」は来るのだろうか。多分こない。たとえプロの作家になったとしても安易に小説を書いているなどとは言わない。相手から仕事の内容を尋ねられたら答えるが、決して自分の口から「小説を書いています」とは言わない。
その理由は単純に面倒臭く、恥ずかしく、そして執筆の妨げになるような思惟を持ちたくないからだ。もし軽々しく言ってしまえば、ぼくの性格はかなり歪んでしまう。傲慢で偏屈な人間になり、それが作品に反映されてしまうんじゃないかと恐れてしまう。

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