やっと取れた休暇を、故郷に似た海辺で過ごそうと思った。
故郷にいた時分にはあれだけ煩わしかった波音が懐かしくなるのだから、人間の勝手さには失笑してしまう。
しかし、それだけでもない。
会いたい人がいた。
頼まれ事をしたからだ。
ぶらぶらと海辺を歩きながら散策していると、女がふたり岩棚に立っていた。
「彼女は何をしているんだい?」と、そばにいたメイドに聞いた。
「存じません」とメイドはツンとすまして答える。
とりつく島もない。
肩をすくめて、もう一度海辺に佇む後姿を目に映した。
白い岩棚に上塗りするように、同系色の女が立っている。
白い服と白い肌が太陽に反射して、まるで陽炎のようだ。
一瞬目をそらしただけで、陽の光の中に、いや、光どころか、このうるさく岩壁を叩きつける波にの音にすら揉まれて消えてしまいそうだ。
そんな儚さと危うさがあった。
彼女は確か、丘のホテルに滞在している女性だ。
裕福な資産家の、ずいぶん年の離れた後添いだと聞いた。
最近、未亡人になったとも。
そのあとに続くのは決まったフレーズだ。
かなりの資産を相続したらしいだの、実にうまくやっただの。
そんな話が近くの社交場でひとしきり花を咲かせていた。噂話を広めることに余念がない連中にはさぞや香(かぐわ)しいことだろう。
たいして面白くもない話だが、そういえば資産家は海で亡くなったとも聞いた。
……遺体はまだ上がってない、と。
「あんなところにいたら危ないのでは?」
「おかまいなく。ちゃんと見てますわ」
メイドはピシャリとこちらを制した。
こちらは、主人とは正反対にインクのような色合いのドレスと、これまたドレスと同じ色合いの髪をひっつめて、背筋を伸ばして立っている。
メイドは辛抱強く海辺の岩礁に座る女主人をずっと見ていた。
見張っている、といったほうが正しいか。
それを証明するかのように、正面で交差したメイドの指が不規則なリズムを刻んでいる。
「ここにいても、奥さまとはお話にはなれないと思いますわ」
メイドは、隣の異物に耐えられないといった風情で忌々しそうにこちらを睨んだ。
まるで毛を逆立てた猫のようだ。
正直、儚げな未亡人よりこちらのほうが僕の好みだ。
ただまあ……それを言ったら最後、爪を立てて追い払われるに違いない。
それに、今はそんな場合でもない。
さすがにそれくらいは弁えている。
ふむ、と一拍置いてから、「どうやら君のご主人と友達になるにはまだ時間がかかるようだね」と、メイドに尋ねた。
「あなたが紳士であるなら」
メイドはまたも素っ気なく答えた。
だが、こちらに対する態度はほんの少しだけ柔らかくなった。
いまはそれで充分だ。
「退散しよう。ああ、でも彼女にあまり長居はしないように伝えて。潮風は体に障る。懐妊中は尚更ね」
その言葉に、メイドは驚いたようにこちらを見上げた。
「どうしてそれを?」と言いたげな顔に、にっこりと、わざとらしいくらいの笑みを返した。
「僕は医者でね。まあ、人よりは人体に詳しい」
「そうですか」
「それに故郷が海に近くてね。おかげで海にも少しばかり詳しい。難破した男を助けるくらいはわけもないんだ。まあ……ちょっと手こずりはしたけどね」
それだけ言って、懐から紙片を取り出すとメイドにわたす。
意味を掴みかねて、紙片に視線を移すメイドに改めて微笑むと、ひらひらと手を振ってその場をあとにした。
後ろから「おくさま! おくさまー!!」と転がるようなメイドの声が海の音と混ざった。
その音を噛み締めながら歩く。
たまには、こんな波音も悪くない。
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アップルドア島南部の岩棚(1913年)
フレデリック・チャイルド・ハッサム(1859-1935)
※パブリックドメインの絵画で掌編を書いています。
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