【感想】なぜ直井みすずは人しか見ないのか【ネタバレあり】
※ネタバレ込みの感想文です。
※筆者の私が感じたことを忘れないように書いた備忘録でもあるため、長文です。
※敬称略です。
赤川次郎著「三毛猫は階段を上る」を読んだ。
三毛猫ホームズシリーズの中の1冊で、こちらは47冊目。短編シリーズとのことだが、50冊近く出てるってすごすぎる。
なお、私はこの47冊目がはじめましてである。
1冊目から読まなくていいのかと心の声が聞こえた気がしたが、いいと思うことにして読んだ。
結論、面白かった。
本作は、偶然店内に入った直井みすずが、雑貨屋を営む老人が拳銃で撃たれる瞬間を目撃するところからはじまる。
直井みすずが物語の重要人物である。事件解決はもちろん、物語のテーマを考える上でも。
直井みすずは、嫌がらせに苦しんでいる女性だ。
夫には浮気(不倫?)され、義母からいじめを受けている。
このふたりの嫌がらせがひどい。
第一発見者の直井みすずは、義母の家に向かおうとしていたときに事件に居合わせ、約束の時刻に遅れてしまう。
警察は義母の家まで送り、義母に事情を説明することにした。
しかし義母は、直井みすずの遅刻を叱るばかりか、彼女を犯罪者呼ばわりしたのである。そして夫は実の母に味方し、妻を非難する。
直井みすずは彼らからの暴言に耐える日々を送っていた。
だけど安心してほしい。最終的に彼女をいじめていたふたりは殺され、彼女は自由になる。
本作は、直井みすずの救済物語なのである。
読んでいて、いちばん面白かったのは文章の書き方だ。
漫画のようなドラマのような映画のような、けれども、きちんと小説になっている。なんとも不思議な文体。見たことがない(私の勉強不足だったらすみません)。
文章の書き方で、もうひとつ驚いたことがある。
自然描写がかなり削られている点だ。
話は少し脱線してしまうが、私は小説を書くときに自然や風景描写を入れたいと思っている。
自然とは、どうにもならないことの象徴だからだ。
どのようなジャンルの小説も、ベースは主人公が理不尽な目に遭い、なんとかしようとする。
その理不尽を描くとき、自然描写を取り入れたいと思っている。
傘がないのに、雨が降ってずぶ濡れになる。
急いでいるのに、雪が降って電車が止まる。
どうにもならない描写を、人間じゃないところから見せたい。
理不尽とは人間同士のトラブルに限ったことじゃないから(この考え方は某学者に影響を受けたからだが、今回の感想文に関係ないので割愛する)。
さて、本作の話に戻る。
本作の自然描写は、強いて言えば2ヶ所ある。
まず葬儀。
義母が亡くなったあと、直井みすずの勤め先の主任が、冬なのに夏のスーツしか着れるスーツがなくて寒いと言っていた。
また、直井みすずは物語の終盤、勤め先のスーパーで品だし準備をする。
犯人が逮捕されたあと、徹夜明けの彼女は朝を迎え、仕事に戻る。
(朝を迎える描写を自然描写と呼ぶかどうかは人それぞれ意見がわかれるかもしれない。私はひとまず自然描写に含めようと思う。太陽は人でないし、人が操作できるものじゃない(=どうすることもできない)からである。)
基本的にはこのふたつの描写のみ。
いや少なっ!
もしかすると私の記憶から抹消された可能性もあるので、自然描写がもっとあったなら教えていただけるとありがたいです。
それにしても、なぜここまで自然描写が(少)ないのだろう?
小説を書いている身としては、ひとつの仮説が浮かんだ。
読みやすい文章を追求した、という仮説である。
けれども私は考え直した。
理由は、ふたつ。
ひとつ、赤川次郎は命の大切さと救いを書く作家だということ(本作の解説より)。
本当に解説の通りなら、表現にも何かこだわりがあるのでは、と受け止めた。
ふたつ、メタ考察をしたくない。
読者としては物語の構成や都合ではなく、登場人物の視点で物語を見たい。何を考えているか知りたい。感じたい。
この物語に自然描写が少ない理由。
本作は三人称ではあるものの、物語の大事な場面は全て直井みすずがいる。
そこで私は、直井みすずがいるときの字の文をすべて彼女が見ている世界、景色だと仮定してみた。
つまり、なぜ直井みすずは人しか見ないのか、と考えてみる。
彼女を通して私が見た世界は、どこか乾ききっていて空虚だ。
太陽の光も、風も、海も、山も、虫さえ、いない。
わかるのは、夫と義母からの嫌がらせを受けながら娘を育てる姿。
そして、事件発生前の彼女は3人以外との交流がなかったこと。
言い換えれば、孤立していた。
そんな直井みすずが、事件と遭遇していく中で前田哲二と出会い、変わった。
人と交流し、怯えなくなっていく。堂々とした彼女が見るのは朝日だ。
物語の序盤から中盤にかけて、極端に風景や自然の描写が少ないのは、直井みすずが外と繋がっていないことを表していたのではないか。
だとしたら、孤立とは、まわりが見えない状態ということなのかもしれない。
世界から取り残され、切り離されても、もう一度世界(外)と繋がるまで耐え続けた女性の話とも読み取れる。
……たいへんグダグダの文章になってしまい、申し訳ない限りである。
何が言いたいって、読んでほしい! この一言に尽きる。
結婚など何かしらのしがらみがあっても。
嫌がらせに苦しんでも。
一時的に孤立しても。
命を投げ出さずに生きた者に、きっと救いがある。
そのような、希望と温もりを感じさせてくれるのだから。
以上、感想文でした。
興奮冷めぬうちにしたため、読みづらいかと思います。すみません。最後までお付き合いいただき、感謝申し上げます。
赤川次郎(2014)「三毛猫ホームズは階段を上る」光文社文庫
https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334767037
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