ゼラニウム

ゼラニウム

 窓辺にゼラニウムの鉢植えを置いた。
 もう日は落ちかけていて、鉢植えの輪郭を曖昧にさせる。それでいて長い影が真っ白な桟にくっきりと浮かんだ。
 花は数本咲いていて、生暖かな風に揺れている。
 母が育てていた花だ。
 普段は温室に置いてあるけれど、ふと思い立って持ってきた。この場所が相応しいと思ったからだ。
「終わったの?」
 しばらくして、義理の姉が声をかけた。無理もない。母の部屋を片付けると言っておきながら、何をするでも無くずっと座っていた。
「いいえ。まだ。ごめんなさい。なんだか……思い出してしまって」
 うつむきながら謝ると、義姉は同情の色を濃くした。
「あら……その鉢植え」
「ええ。温室にあったのを持ってきたの。昔はここにあって」
 曖昧に濁すと、義姉は思い出したように「ああ」と頷いた。
「覚えてるわ。義母さん、いつもここで座っていらしたものね。結婚するまえ、よくヘンリーと話してたわ。きっと、ここに座って義父さんからの手紙を待ってるんだろうって」
 ヘンリーは私の兄だ。兄と義姉は幼なじみで、小さな頃から遊んでいた仲だ。
「たしか、義父さんが戦地にいってらしたときかしら。ヘンリーと外を歩いていて、ほら、あの丘の辺りよ。見えるでしょ? あの辺りからこの屋敷を見たら義母さんがこの窓辺にいたの。てっきり義母さんが私たちを見ているんだと思って手を振ったの。義母さんも手を振り替えしてくれて。そしたらね、ヘンリーったら『僕たちに手を振ったんじゃないよ。郵便配達の人にふったんだよ』って」
 姉は窓の外の小高い丘を見ながらこちらに微笑む。私と記憶を共有して、亡き人を語りたいのだ。
 義姉は善良な人だ。
「そうかもしれないわね」
 曖昧に笑った。
 ヘンリーがどこまで知っていたかは分からないけれど、彼の予想は当たっていたのだろう。
 普段、郵便は午前中に届けてくれる。けれど、そういった手紙が来た時にはいつでも郵便配達の人が家まで届けてくれた。
 母がどちらを待っていたのかは分からない。
 父からの手紙だったのか。
 郵便配達夫自身だったのか……。
 分かっているのは、あの頃、郵便配達夫が母の秘密の恋人だったということ。この鉢植えを贈ったということ。
 そして、父が戦地から復員してから母がこの窓辺に立ったことはないということだけだ。
「……」
 ゆっくりとした風が部屋の中に入ってきて、ゼラニウムの花を揺らした。
「さ、そろそろ下へ行きましょう。部屋の掃除は明日やれば良いわ。いくらかかっても良いから」
 姉が切り替えるようにわざと明るい声を出しながら、部屋を出ていった。
「そうね」
 つられるように笑って、鉢植えを手にした。この鉢植えは、しばらくこの部屋に置いておくつもりだ。
 どうしてかわからないけれど、それが母へのたむけになると思った。
 鉢植えを手にして何気なく窓の外を見た途端、時が止まる。
 視線の先、なだらかな丘の上に、男がひとり立っていた。
 男はこちらに身体を向けて、うつむいていた。何かに祈るように。
 母の死を悼むように。

 あの郵便配達夫だった。

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