あじさいにしき
気付いた時には、曇り空のような青と灰色を混ぜた色が周囲には満ちていた。多分、夢の中の世界というやつだ。
「なんか雨降りそう」
なんとなく上方の空間を見つめて呟くと、私の目の前に、黄色い傘が現れた。サイズが小さく子供用と思われたが、折角なので、差して歩くことにする。
もしかしたら、この夢の世界は欲しいものが何でも出てくるのかもしれない。
「長靴も欲しいな」
スニーカーだった私の足元は、なんの前触れもなく黄色い長靴に変わった。
上下左右全てが曇天の様な空間の中で、傘と長靴だけは輝いて見える。
「まぁ、悪くないかな」
変わることのない景色の中、黄色い傘と長靴を装備してしばらく歩く。
すると、傘や長靴と同じく唐突に、前方に女性の姿が揺らめいた。不思議なことに、女性は全体的に色味が薄い。白を多めに混ぜた色絵の具のようだ。
「初めまして」
「あ、どうも」
こういう時にかけられる第一声は、「こんにちは」とかだと思っていた。
間近で見た女性はやはり色が薄い。透けてしまう少し手前まで透明度が調整されているみたいだ。
どこにでもいる中年女性といった風貌で、軽く笑みを浮かべた表情が似合っている。
そして、どこにでもいない大きな特徴があった。背後に、紫陽花を沢山咲かせている。
「これ、キレイでしょ」
「あ、はい。すごく」
後ろに回していた両手のうち、左手だけを前に持ってきた女性は、その手をそのまま頬にあて嬉しそうに笑った。薬指に輝く指輪には、彼女の背後に咲く紫陽花と同じ青・紫・赤の石が小ぶりながらも光っている。
「いいですね。紫陽花」
「あなたも好き?」
「好きですね」
「これね、ワタシが創ったの」
「育てたってことですか?」
「創ったの」
私は誰かの育てている紫陽花を愛でたい派だが、自分で管理して育てている人はこういった表現をするのが一般的なのだろうか。
首を傾げている私の頭上で、傘が雨粒を弾く音がした。
「こうやってね、ここに雨を入れるの」
女性はポケットから小さな四角い缶を取り出すと、そのまま片手で蓋を開け、空いた穴で雨を受け止め始める。本来飴が出てくるはずの穴は、一滴二滴と雨を吸い込んでいく。
「雨を入れたらね、ワタシの何かを入れるの」
「何を入れるんですか?」
「何でもいいの。ちょっと嫌な思い出とか、もう流すことがなさそうだなって思えちゃった涙とか、髪の毛一本とか。ここに入ればいいの」
チャプチャプ水音をさせながら缶を空中で動かすと、女性は片手のまま器用に蓋を締めた。
今の動作では、せいぜい周りの空気しか入れられないのではないだろうか。
「大丈夫。今のは周りに浮いてるワタシの”雨の思い出”を入れたから」
「そうですか」
「これを振って」
女性はゆっくりとして速度で缶を左右に振る。相変わらず、聞こえてくるのは水音だけだ。
「蓋を開けると」
缶の蓋が開けられた瞬間だった。
女性の右脇腹の辺りに、濃い紫色の紫陽花が咲いた。
「こうなるの。キレイでしょ」
「キレイですね。どうなってるんですか?」
「入れ物は何でもいいの。雨と、自分のなにかを一緒に入れてこうして混ぜてあげるだけでいいの。そうしたらこうやって、紫陽花が一朶咲くの。キレイでしょ」
「キレイですね」
知らなかった。紫陽花は一朶と数えるらしい。
女性は色とりどりの紫陽花に支配されているように見えるが、実に幸せそうだ。
不意に、彼女は顔を曇らせた。
「ただね、どんどん紫陽花に侵食されちゃうからあんまりオススメはできないの。だからあなたに会いに来たんだけど……遅かったみたいね」
「え?」
女性の言葉はどういう意味だろう。
私も既に紫陽花に侵食されていると言いたいのか。いくら紫陽花がキレイと言っても、私はそこまで入れこんだ覚えは無い……はずだ。
「すみません、それって私にも咲いてるってことですか?」
尋ねた私の言葉に、女性は驚く素振りを見せたものの、すぐにまた笑顔を見せてくれた。
「あなたすごくキレイよ」
彼女の言葉が耳から脳へと伝わった途端、雨と紫陽花の世界は崩れ、私はどこかへ落ちていった。
夢の世界から、意識が戻る。
次いで、忘れていた記憶と現実が戻ってきた。そういえば、あの傘も長靴も、私が最初と最後に咲かせる為に使っていた。
「咲いてたか、私」
全てを紫陽花を咲かせる為に捧げた私は、紫陽花となって咲いていた。
「隣、失礼するね」
夢で会った女性が、夢の中よりも多めに紫陽花に塗れた姿で、私の隣に腰を下ろした。
この様子では、彼女も時間の問題だろう。
「ワタシももう少しで咲けるの。折角だし、隣で咲かせてね」
女性は、私の表面についた雨粒を指で払った。
「やっぱり、あなたキレイね。すごく」
返事の代わりに、私はまた一つ、雨粒を彼女の紫陽花の葉へと落とした。
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