中学生のころ、皆んなの前でひとりずつ行う、英語の朗読劇テストがあった。14歳という思春期まっさかりのときでさえ、ただひとり、本気でおじいさんとおばあさんの役になり切って大きな声で発表するような生徒がわたしだった。
高校生のころ、音楽の授業でアコースティックギターの弾き語りトーナメントテストがあったときも、本気で練習して本気で歌うから、必然的に「恥ずかしさを抱えた学生」のなかを勝ち上がって、決勝までいってしまうような生徒がわたしだった。
あいつ、痛いよな。
あんな一生懸命になっちゃって。
たぶん、そんな風に思われてるんだろうなと当時は思っていたけれど、不思議と一生懸命になることをかっこ悪いと思ったことは一度もなかった。むしろ、ずっとずっと、一生懸命なひとはかっこいいと思っている。もちろん、今も。
そんな風に「自分を表現する恥ずかしさ」みたいな部分が欠けているからなのか、わたしは昔から自分自身のことを打ち明けるのにためらいがない。(それはもちろん、信頼しているひとが相手であるからということが大前提なのだけれど。)
だから、家族や親戚だけじゃなく、大好きな友人たちや仲良くしてくださっている先輩も、なんなら信頼している職場の先輩も、わたしが小説を書いていることを知ってくれている。
反応はどうなのかと言われると、(実際はどう思われているのかは別として)驚かれたり、すごいね!と言ってもらえることが多い。それってとっても幸せなことだと思う。
過去のひねくれていた時期のわたしだったら、小説どうこうに関わらず、他人の褒め言葉はあんまりあてにしないほうがいい、とか、どうせ上部だけ、なんて思っていたところもあったと思う。
だけど、誰かからかけてもらえるプラスのエネルギーをもった言葉は、前向きに受け取るとすごく心が生き生きする感覚があることに気がついてからは、「ありがとう」と素直に受け取るようにしている。
それに、もし仮にその言葉たちが上部だったとしても、そんなふうに言ってもらえるってことは事実であることに変わりないんだから、それを自分の力に変えてあげないともったいないな、とも思うのだ。
「ねえ、〇〇。わたし、むかしから小説書くことが大好きでさ、実は今度本屋さんにね……」
わたしの好きなものを知ってくれている大好きなひとたちへ、この言葉のあとに笑ってハッピーな報告を続けることができる日まで、わたしはきっと、筆を折らない。
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